現在、医師や歯科医師になるのはかなりの苦労と困難を乗りこえなければならない。最初の関門が大学入試である。日本の法律では、医師や歯科医師を目指す者は、その専門学部あるいは大学へ進学する必要がある。頭が良いから、いきなり国家試験を受験したいと願っても無理なのだ。
大学に入っても、卒業するまでは厳しいカリキュラムの連続である。ここをクリアして初めて国家試験を受けられる。私たちが国家試験を受けたころは、普通に勉強していればまず合格できたものだが、現在では国家試験が難物になっているのは、皆様もご存知のとおりである。
では江戸時代はどうであったのか。江戸時代というのは徳川幕府を頂点とした地方自治集合体であった。幕府は大名を統括するが、その内政には口出ししないし、全国を統一する法律も制定しなかった。つまり、医業と商業は、誰の許しもなく自由に始めることができた。それこそ、昨日まで大工だった男が、頭を丸めて※)今日から医者だと言ってもよかったのだ。まあ、さすがにそんな 例は落語の世界にしかないだろうが、多くの医師は開業医のもとへ弟子入りして、雑用をこなしながら文献を紐解き、臨床を見学して修行を積んだ。この修行期間については、個人差が大きく特定は難しい。なかには当時の医療最先端の地である長崎、大坂、京(京都)、江戸に遊学した者もいたようだが、これには金がかかる。ほとんどの場合は数年の修行を積み、師匠から独立を認め られて医師を名乗った。当然、医師の技量はピンからキリまでであった。
さすがにこれではまずいと八代将軍吉宗のころから、官制の医学校などができ始めるが、それでも医療事情はお寒く、「取りあえず大黄(下剤)、葛根湯(熱冷まし)を処方しておけばいい」といった具合であったろう。もちろん、曲直瀬 道三、緒方洪庵、華岡青洲ら医聖と讃えられた名医もいた。まさに玉石混淆、かなり玉が少ないようだが、これこそ江戸期の医療の実態だった。
ちなみに表題の「でもしか医者」というのは、何をやっても駄目だから、医者に「でも」なろうか、医者に「しか」なれないという藪医者のことを庶民が揶揄したものである。どれだけ信頼されない医師が多かったのか。
このような状況は明治維新の六年後、医師免許制が始まったことで終わりを迎えた。終わりを迎えたはずである。とはいっても結局のところは、個人の研鑽が名医を作るのは、今も昔も変わってはいない。
※)当時医師は、身分上僧侶とされることが多かった。