「い、い、井上。お前の理論はオバQだ。何度言ったらわかるんだ、バカかおまえは…」顔を真っ赤に紅潮させながら、先生はどなった。高校3年生の春のことである。
大嫌いだった現代国語のS先生は、口から泡を吹きながらいつも怒っていた。短気なだけでなく、学生をバカ呼ばわりし、今なら即父兄から退職宣言が出そうなくらい横暴でもあった。S先生は当時流行っていたオバケのQ太郎の歌に次のようなフレーズがあることを批難した。「頭のてっぺんに、毛が3本、毛が3本、だけども僕は飛べるんだ…」。S先生は、授業前にいつも嘆いた。情けない…、この歌詞はまったく論理性がない、なんという日本語であるのかと…。歯科医師になって、偉い臨床家の先生「骨がなくったって、インプラントは植立できる」と言ったとき、急に高校時代の現代国語の先生の言葉が頭をよぎった。「なんだ、この先生、オバQじゃないか…」と。
理屈っぽいS先生のオバQ理論とはこうである。頭に毛が3本と飛べることの関連性がまったくない。そして、だけども…と繋げているところは理解し難い、ということである。だけども…の前に、説明がないからわからないのである…と。余談であるが、オバケのQ太郎とは、ごく普通の家庭に住み着いた一匹の間の抜けたオバケが引き起こす騒動である。Q太郎の「Q」は、娘が小生の同級生であった小説家安部公房氏の本の中にあった「Q」という文字に「愛嬌がある」ということが由来らしい…。
さて、「骨がないとインプラントはできない」が大原則である。もし、本当に「骨がなくても、インプラントは植立できる」という理論なら、インシデント(医療にあってはならないが、故意に行う事象)になる可能性が高い。なぜなら、そういう理論の持ち主は、骨がなくても一部だけがオッセオインテグレーションすれば大丈夫、一部にフィクスチャーが出ていても問題ない…という感覚の世界、匠の世界で話をしているのだから。それが、インプラント周囲炎のリスクが高いことを意味することを知らないのだろうか。もし分かっているなら、インシデントと言わざるを得ないのである。もし、「骨の量が足りない人がいても、骨移植をし、見せかけの骨量を充分得ることができれば、そこへインプラントを植立することは不可能ではない…。しかし、経過観察をしないと…」であれば理解できる。
今、オバQ理論だけで、新しいことが紹介されている歯科界に思う。私は、病態学者として、S先生にならなければと思っている。オバQ理論の本論を解くために…。