マイ・フェア・レディとバケツ冠

No.117

平成18年4月の診療報酬改定に伴い、旧来型技術の関わる評価の廃止が提示された。現代の若い歯test科医師には悪者の代表として教えられた帯環金属冠(通称:「バケツ冠」または「サンプラ冠」)である。このサンプラ冠によく使用されている金属の成分は、ニッケル(91-94%)・クロム(5-8%)合金で、いかにも金属アレルギーが出そうな材料である。このサンプラ冠の作り方は結構、匠の世界である。まず、通常の印象後、易溶(融)合金で模型を作り(詳細略)、その後、厚さ0.5mm程度のサンプラ板を模型にかぶせ、槌でたたいて圧印する。アンダーカットが存在する場合、模型に沿って圧印すると歯頸部径が小さくなりサンプラ冠をセットできないので、歯頸部付近を別の板でぐるりと巻いて、圧印冠と銀鑞で鑞着して作る。最後はリン酸亜鉛セメントで合着するが、必然的に歯頸部のセメント層が厚くなることは避けられない。

 さて、このサンプラ冠は余分な歯牙の切削を必要としないが、適合性は悪いことは言うまでもない。その結果、審美性はもちろん悪く、歯肉に対しても炎症を起しやすい環境となる。でも、除去は簡単で取った後の歯牙はきれいな姿を現すし、歯肉も結構良く治る。一方、適合精度と審美性では、健常な歯牙を沢山削った鋳造冠のほうがいい。でも、二度と再生しない歯を削らなくてはならない。病態学者に、純粋にどちらに軍配が上がるかを問うたら、半分半分に分かれるような気がする。

 教育の現場では、教師が優秀と思った学生は、本当に優秀に、また駄目と思った学生は劣等生になってしまう。つまり、ピグマリオン効果(pygm-alion effect)とは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。なお、教師が期待しないことによって学習者の成績が下がることはゴーレム効果と呼ばれる。イギリスの戯曲“ピグマリオン”を原作として作られたのが“マイ・フェア・レディ”で、貴婦人になるためには、他人からそのように見られるようにすれば、おのずと貴婦人になれるというものである。

 果たして、メリットを充分に説明したピグマリオン効果が、自費でしか請求できなくなったバケツ冠を入れる患者を増やすことができるだろうか。古い技術かもしれないが、再生医療が注目を集める中、再生医療の必要性のないこの治療法は新しい技術かもしれない。何故、エナメル質を削らないでサンプラ冠とするのか……との理由はともかく、エナメル質を削らない治療という面は実に素晴らしいと思うのは病態学者だけであろうか。

 最後にもう一つ。今回の改正において、医科では、100件余りの申請に対して、50件の先進医療が認められた。それに反して歯科では申請がなかった。申請をしていないのでは言い訳する材料も何もない。もはや唯々成り行きを、指をくわえて見つめている場合では……。

著者

井上 孝

東京歯科大学臨床検査学研究室・教授
(いのうえ・たかし)

井上 孝(いのうえ・たかし)

1953年生まれ。1978年東京歯科大学卒業。2001年東京歯科大学教授。幼少時代を武者小路実篤、阿部公房などの住む武蔵野の地で過ごし文学に目覚め、単著として『なるほど』シリーズを執筆。大学卒業後母校病理学教室に勤務し、毎日病理解剖に明け暮れ(認定病理解剖医)、“研究は臨床のエヴィデンスを作る”をモットーにしている。