堪忍袋の緒が切れる

No.189

no189image あまり使われなくなったが、あきれるを通りこして我慢ならない状況を堪忍袋の緒が切れると表現する。腹中にあって、この堪忍袋に付いた緒が切れると感情が爆発するとされていた。昔の人が激発する人物を見て想像したものであろうが、じつに的確な表現ではないか。
 さて、歴史上の人物で堪忍袋の緒が切れやすいとなれば、まず織田信長であろう。本能寺の変は、明智光秀が織田信長から同僚たちの目の前で鬘かつらを剥ぎ取られ、殴る蹴るの暴行を受けた屈辱が原因だという説が今でも有力である。
 織田信長に関しては、元織田家弓頭の太田牛一が認めた『信長公記』や公家山科言継の『言継卿日記』などが詳しい。あきらかにおかしい記述や不自然な抜けもあるが、織田信長の性格などについてはルイス・フロイスの『日本史』にも「いつ怒り出すかわからないので、配下の者はたえず緊張している」という記述があるのでまずまちがいないだろう。
 ではなぜ織田信長は不意に怒り出して、部下に暴力を振るったのか。
 どうも私たちは時代劇の影響で、武士は主君に忠義を尽くすと思いこんでいるから見逃しがちだが、ときは下剋上の戦国なのだ。事実、主君から国を奪った例は、武田信玄(父を追放)、毛利元就(主家を潰す)、松永久秀(将軍殺し)と枚挙に暇がない。そんななかで織田信長は明智光秀に裏切られるまで生き延びて勢力を拡大し続けた。
 これは織田信長が気配りができたからだと私は考えている。女癖の悪い羽柴秀吉の妻ねねに慰めの手紙を書いたり、戦で討ち死にした者の家族が生活できるように手配したりしている。だからこそ、織田信長は天下人まであと一歩というところまで来られた。
 その織田信長がなぜ切れやすいと言われたのか。意外と知られていないが、織田信長は甘い物好きであった。宣教師からもらったカステラを何度もお代わりしたとの話が伝わっている。さらに戦国期は流通が己の勢力範囲だけで完結するのが普通であり、尾張、美濃を本拠とする織田は九州、琉球との交流がなく、砂糖を手に入れることが困難であった。京を抑えたことで、織田信長は砂糖の味を知った。砂糖を口にできるというのも一つの権威であったのだ。結果、織田信長は糖分の過剰摂取に陥っていた可能性が高い。そして、齲歯が出来、その痛みで激発した。
 本能寺の変の真相は虫歯にあった。根拠はないが、そう考えるだけで楽しいではないか。

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業

1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー

2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂(」中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞

2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる

日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】

禁裏付雅帳シリーズ(徳間文庫刊)

日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)

聡四郎巡検譚シリーズ(光文社時代小説文庫刊)

百万石の留守居役シリーズ(講談社文庫刊)

本懐(光文社刊)