歯科医とカイラス巡礼(1)

No.107

あれは昨年の桜が満開の頃だった。

 朝食中に臼歯がポロッととれた。その歯をティッシュに包んでポケットへ入れ、かかりつけの歯科医test(富山市・寺田周明)へ向った。

 途中満開の桜並木の川沿いを歩いているうちに、ふと西行の歌が浮かんだ。

 ねがはくは花のもとにて春死なん
 そのきさらぎの望月の頃

 何も歯が一つ欠けたくらいで、死を思い浮かべることもあるまいと思った。だが歯が一つ欠落する度に死に近づいているのは確かである。ポケットへ手を突っ込んで永く働いてくれた歯を愛撫するように指で触っていたが、何を思ったのかその硬い塊を取り出すと桜の木の根元へ投げ捨てた。

 歯科医院の診察椅子に座ったとき、「とれた歯はお持ちですか」と若い女性の歯科衛生士に聞かれて、戸惑った。

 友人の主治医は「もうあちこちガタガタですな」と言って治療をしていた。そして治療が終わって口を濯いでいたら「カイラスへ行きませんか」と言った。

 カイラス? 聞いたことがあるなと思った。
テレビで見たのか、写真集だったか、不思議な形をした雪山の周りを巡礼者が五体投地している光景が浮かんだ。

 私は衝動的に「行きます」と即答した。

 最初は十人ほどの参加希望者があったが、西チベットにあるカイラス山は、ラサより車で平均標高4500mの高原を2000kmの行程で、日程が20日ほどかかるということがわかると、だんだん辞退者が出て、最終的に残ったのは私を含め三人になってしまった。私も迷っていた。念のためにと脳ドックで検査してもらったら、血糖値が高く、完全な糖尿病と診断された。

 思案の末、意を決して出発したのだった。

 霊山カイラスでは標高5000mの巡礼路52kmを私は息絶え絶えに歩いていた。その横をチベットの巡礼者は五体投地で進んでゆく。そんな彼らが車座になって食事をしていた峠で、彼らの主食であるツァンパ(大麦の煎り粉をバター茶で捏ねたもの)を貰って食べていた時のことである。洗ったこともないような汚い顔をして笑顔を見せる彼らの歯がとても白いことに気づいた。

「みんな白いきれいな歯をしていますね」
「君も毎日、麦粉とバター茶だけの食事をしていたら、ああなるよ」

 歯科医の寺田氏は皮肉っぽく言った。考えてみれば毎日のようにグルメ番組がテレビに流れる世界一雑食の国に住み、少欲知足を忘れ贅沢三昧の日々を過ごしてきた自分を恥じた。だが、歯を磨く時間も惜しんで働いてきたのだと霊山カイラスに向って泣き叫びたい気もするのだった。

著者

青木 新門

詩人・作家
(あおき・しんもん)

青木 新門(あおき・しんもん)

詩人・作家

1937年富山県生まれ。早稲田大学中退後、富山県で飲食店を経営する傍ら文学を志す。

1973年冠婚葬祭会社に入社。1993年葬式の現場での体験を「納棺夫日記」として著しベストセラーとなり全国的に注目される。

現在 著述ならびに講演活動。日本文芸家協会会員。

著書に「納棺夫日記」小説「柿の炎」随筆集「木漏れ日の風景」詩集「雪道」山折哲雄氏らとの共著「死をめぐる三つの話」など。

なお、「納棺夫日記」は2002年11月アメリカで「Coffinman」と題されて英訳出版され、好評。