糖分がう蝕の主たる原因であると、最初に提唱したのは十八世紀のフランス人歯科医師ピエール・フォシャールらしい。少しの余裕を見ても、十九世紀初めのヨーロッパでは、ほぼ常識になっていたはずである。
しかし、その概念は日本に届いていなかった。
徳川三代将軍家光のときに日本は鎖国をした。とはいえ、完全に閉じたわけではなく、オランダ、明、朝鮮の三国とは細々とした交流を維持していた。なかでもオランダには、世界の情勢を知るために風説書を寄港のたびに出させていたが、歯磨きについての情報はもたらされなかったようだ。まあ、世界の情勢を知りたい幕府に、甘い物は身体に悪いというような話は不要だったのだろう。
さて、白砂糖は基本輸入品で高価なものであり、そうそう買えるものではなかったが、将軍となれば話は別である。
幕府崩壊の音が聞こえだした十九世紀中頃、御三家紀州徳川家の当主から十四代将軍となった家茂の甘味好きは相当なものであった。とくに金平糖を喜び、一日一袋を食べていたとも言われている。
事実、討幕運動の始まりともなった第二次長州征伐のため、江戸から大坂まで進軍した夫家茂を気遣った和宮が、手縫いの浴衣と金襴の袋に入れた金平糖を送ったという記録が残っている。妻の心づくしを喜んで口にしただろう家茂は、残念ながら和宮と再会することはできなかった。思い通りに進まない長州征伐の苦悩もあったのだろうが、家茂は大坂で急死する。享年二十一歳という若さであった。
そして家茂の死後九十年余、東京タワー建設のために徳川家菩提寺増上寺の墓地改葬がおこなわれた。そのとき発掘された家茂の頭蓋骨写真が残されている。現存していた上下顎三十一本の永久歯のうち、三十本にう蝕が認められる。さらにう蝕のうち七本は、歯髄が露出するほど崩壊していた。
白骨状態で軟組織の状態は推測するしかないが、当然、これだけ口腔内の状況が悪いのだ。歯肉炎あるいは歯周炎を起こしていた可能性は高い。
幕府の記録では、将軍家茂の死因はこの連載の1回目で紹介した脚気衝心となっている。しかし、諸兄はもうお気づきであろう。口腔内疾患から来る菌血症の疑いがあると。
歴史に「もしも」を持ちこむことは禁忌であるが、もし家茂がちゃんと歯磨きをしていれば、徳川幕府の末路はどうなったであろうか。
和宮の兄孝明天皇から愛され、勝海舟や大久保一翁らから英邁だとして忠誠を尽くされた将軍の死があと少し遅ければ、明治維新は起こらなかったのではなかろうか。