食べることは幸せである。おいしいものを腹一杯に食べたとき、人は多幸感に包まれる。飢えるという生物の本能が忌避されたと感じるからだろうが、食事というのはまさに口福である。
とくに好きなものを構わずに何でも食べるというのは、うれしい。
さて、江戸時代初期の医師に玉木吉保という人物がいた。毛利家が関ヶ原の合戦の敗戦で、大幅に禄ろくを減らされたときに吹き荒れた人員整理も生き延びた者である。医師の身分が武士の中では低かったことを考えれば、相当に優秀だったのだろう。
この玉木吉保は、延命院勝楽寺(現在の香川県三豊市にある寺院)で十三歳から十五歳までの二年間、医術修業をしている。その後は毛利家の戦に帯同、中国地方を転戦、ようやく大坂で医術の修業を再開したのは、じつに五十歳のときであった。平均寿命が三十五歳に満ちない(討ち死が影響をしている)ときに、五十歳で学ぼうとした姿勢にも頭が下がるが、この玉木吉保(医師としては儀真と名乗った)は後学のために、医術の肝要を歌として残した。
じつはこの玉木吉保は医学修業を中断した間に、かの明智光秀が『ときは今、天が下しる、さつきかな』という謀反の歌を詠んだ連歌の会を主催するほどの連歌師 里村紹巴のもとで歌を習っていた。それが玉木吉保の医術歌に繋がったのだろう。薬剤の効用を教える歌薬性八十首、陽脈、陰脈、九脈、死脈を組みこんだ四十二首、合わせて百二十二首に至る。おもしろいのは、それとは別に某人に聞いたとして合禁十五首を別に残している。合禁とは、食い合わせ(合食禁)のことだ。
西瓜と天ぷら、鰻と梅干し、蟹と柿など諸氏も耳にされたことはあるだろう。今では、その多くが否定されているが、あらためて肯定されたものもある。それどころか、現代ならではの食い合わせも生まれている。インシュリンと酒類(急激な低血糖)、イソニアジド抗菌薬とチーズや魚の干物(動悸、腹痛)などだ。もし玉木吉保がこのような合食禁が生まれたことを知れば、どのような歌を詠んだであろうか。
不幸なことに玉木吉保の子孫や弟子の存在はわからず、その医統の継承は確認されていない。だが、歌という形を取った技術は四百年の時を超えて残った。
食べ物の最初の入り口を担当する歯科医師こそ、玉木吉保の医術の根本である『医食同源』の体現者として、合食禁についてもっと広めていくべきではないだろうか。
No.190