チベット民族は、ヒマラヤ山脈や崑崙山脈のような万年雪を冠する高山に囲まれた地形から、雪山を蓮の花びらにたとえ、自国を「蓮華の国」と称して仏教を守ってきた。
日本が鎖国を解いた頃から完全な鎖国を実施し、第二次世界大戦後の中国の侵攻(中国側では開放)まで世界の秘境と称されても頑なに鎖国を続けたのも、仏教によって形作られた国の姿を守るためであった。
だからわれわれがこの旅で目にしたものは、大自然の景観を除くと、街も家も、人の生活も、全てが仏教で彩られたもののように映った。
チベットの街の中心には必ず寺がある。寺を作ると街ができるのである。元来遊牧民には街など必要ないわけで、全てが仏・法・僧を養い守るための街であった。
だがそんな姿も、急激に変わろうとしていた。
ラサやシガツェといった大きな街では、その表通りは漢人が経営する商店街が並び、物質文明のクローバル化の先端が押し寄せていた。
1954年に全中国人民代表会議に出席したダライ・ラマ十四世に毛沢東は耳打ちしたと言う。
「宗教は毒だ。宗教は二つの欠点を持っている。一つは民族を次第に衰えさせる。第二には、国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ」
この毛沢東の言葉は象徴的である。チベットが辿った運命を決定づけたと言っていい。
現在中国領チベット文化圏に住むチベット人は、独立など諦めたように裏通りで肩を寄せ合って暮らしているが、観音菩薩の活き仏とされるダライ・ラマ法王を今もなお敬慕している。その法王もポタラ宮殿にはいないわけで、その寂しさを補うためにか、観音菩薩の化身と信じられている霊山カイラスの巡礼へと向かう者が多いという。
われわれが向かった日も、ベースキャンプのタルチェンには一万人近くの巡礼者がチベット文化圏の各地から、何百、何千キロの道のりを何ヶ月もの日程を費やしてやってきていた。
彼らは巡礼に出ると、その途上にある聖地や寺院には回り道をしても立ち寄り、五体投地を繰り返しながら真言を唱えて進む。峠へさしかかるとタルチョ(祈り旗)を結び、そこでも真言を唱える。
「オンマニペメフム」―蓮華の珠に幸いあれ!
実に美しい真言である。蓮の葉上の露は風で転がると、珠のように光る。仏教では、清浄心は悟りの境地とみなされ、「蓮の露」はその象徴とされてきた。
カメラを覗いていた寺田さんが言った。
「みんなおだやかで、いい顔をしている。これを存在感があると言うのかな」
彼らの眼は蓮の葉に光る露のように清らかだった。
青木 新門(あおき・しんもん)
詩人・作家
1937年富山県生まれ。早稲田大学中退後、富山県で飲食店を経営する傍ら文学を志す。
1973年冠婚葬祭会社に入社。1993年葬式の現場での体験を「納棺夫日記」として著しベストセラーとなり全国的に注目される。
現在 著述ならびに講演活動。日本文芸家協会会員。
著書に「納棺夫日記」小説「柿の炎」随筆集「木漏れ日の風景」詩集「雪道」山折哲雄氏らとの共著「死をめぐる三つの話」など。
なお、「納棺夫日記」は2002年11月アメリカで「Coffinman」と題されて英訳出版され、好評。