見ぬこと清し

No.191

no191image 手紙を書かなくなった。いや、文字を書かなくなった。
 仕事の関係もあり、パソコンを使っているというのもある。紙の節約になる、地球に優しいのは確かなのだろうが、自筆の手紙でなければ伝わらない思いというのもあると私は信じ、最近はできるだけ手紙を書くようにしている。
 さて手紙を書くとなれば、筆記用具がいる。今回はその中から筆をテーマに選んだ。
 江戸時代、遠方の知人へ連絡を取るには手紙か、直接訪れるか、手段は限られていた。旅立ちの朝に水盃みずさかずき ※)を交わすほど当時の旅はどうなるか予想がつかず、さらに費用も嵩むことから連絡の手段としてはまず取られなかった。
一方、江戸時代の日本の識字率は世界のトップであり、その辺の長屋の小せがれ●●●でも読み書きはできた。
 そのせいか、江戸にはあちこちに筆屋があった。当たり前のことだが、筆は使い捨てではないし、競合店が多ければさほど売れるものではなかった。
 「なんとか目立たないと」
 そう考えるのは商売人の常。とある筆屋は思案を重ねた結果、大評判となる売り方を見いだした。
 「筆先を整えまする」
 その筆屋は、売った筆の先を使いやすいように整えるサービスを始めた。それが筆小町とまで讃えられた娘に筆先を含ませ、唾液で毛先を固めている糊を取るというものであった。
 結果、筆屋は大繁盛した。ただし、客は男に限ったが。なにせ昨日筆を買った客が今日もやってくるのだ。美女が口にしたものに男が群がる理由は言わなくともおわかりだろう。
 細菌のことなど誰も知らないころの話とはいえ、かなり無謀なまねであったのはまちがいない。伊東玄朴いとうげんぼく(江戸時代末期から明治にかけての蘭方医)の遺した診療録には、七割の患者が梅毒にかかっていたという記載もある。「見ぬこと清し」ということわざ通りだが、今でもそれは続いているのではないだろうか。
 先日まで猛威を振るったコロナウイルスの騒ぎはどこへ行ったのだろう。感染者数が毎日発表されていた報道も消えたからか、ほとんどの者は気にしなくなったが、今でも感染者はかなり出ている。歯周病、う蝕などを扱う歯科医師は細菌の専門家である。実際の治療だけではなく、啓蒙活動にも力を入れるべきだと思う。知らぬが仏ではやっていけない。

 

※)杯に水をついで飲みかわすこと。二度と会えないような別れの時に行う。

 

著者

上田秀人

作家・歯科医師
(うえだ・ひでと)

上田秀人 (うえだ・ひでと)

1959年 大阪生まれ。大阪歯科大学卒業

1997年 第二十回小説クラブ新人賞佳作「身代わり吉右衛門」でデビュー

2011年 第十六回「孤闘 立花宗茂」(中央公論新社刊)で中山義秀賞受賞

2012年 開業していた歯科医院を廃業、作家専業となる

2022年 第七回吉川英治文庫賞受賞

日本推理作家協会会員/日本文芸家協会会員/日本歯科医師会会員

【主な作品】

隠密鑑定秘録シリーズ(徳間文庫刊)

日雇い浪人生活録シリーズ(ハルキ文庫刊)

惣目付臨検仕るシリーズ(光文社時代小説文庫刊)

勘定侍 柳生真剣勝負シリーズ(小学館文庫刊)

旗本出世双六シリーズ(中公文庫刊)