お歯黒べったりというのは、美しい女の姿をしていながら顔にはお歯黒を塗った口しかなく、からかおうとする男を脅かすだけという、害があるのかないのかわからない妖怪である。(一部、目鼻のあるお歯黒べったりも伝わっている)
なぜ、お歯黒べったりからはいったかというと、同じような口だけで目鼻がない女の妖怪が中国の記録にもあるのだが、それはお歯黒をしていないことが気になったからだ。
中国でも一部の少数民族はお歯黒をするが、庶民にその風習はほとんどない。対して、日本は江戸時代まで公家や武将など身分の高い男性と既婚あるいは出産経験のある女性がお歯黒をしていた。
大先達のなかには、お歯黒を実際にご覧になったお方もおられよう。
ちなみに、私がお歯黒というのに興味を持ったのは、学生だったとき、とある時代小説家(記憶が定かでないが、池波正太郎氏ではなかったかと思っている)の随筆に「若いころ、近所のお店の女将さんがお歯黒の口で微笑んだときの色っぽさにしびれた」と書いてあったところに拠る。どのようなものだったのか、興味を抱いたのだ。
実際、数年前の映画「駆込み女と駆出し男」という映画で人妻の役をされた満島ひかりさんが、お歯黒をなさっていたが、たしかに震えつくほど美しかった。
さて、いまさら説明をするまでもないが、お歯黒とは酢に鉄を付けた液とタンニンを多く含む樹液粉末を、歯に塗り込むことを言った。歯の表面にタンニン酸化合物をコーティングすることでう蝕の予防、進行阻止に効果があったとされる。
とはいえ、お歯黒の最古と考えられている古墳時代ごろに、その効果が知られていたとは思えない。
古来、人は口から悪気が入ると考えていた。それを防ぐために力ある者が、まじないとしておこなったのがお歯黒の始まりだろう。だからこそ、男は公家などの高貴な身分でないとしなかった。
では、なぜ女性はお歯黒をしたのか。お歯黒を付けることで既婚の身だと知らせ、他の男から声をかけられないようにしたとの説が有力らしい。要は夫の嫉妬である。
そのお歯黒が消えたのは、西洋に追いつこうとしていた明治新政府が、醜いと欧米人から嫌がられたので禁じたことによるという。
口は災いの元。出る言葉、入る悪気、どちらも精神、身体の健康によろしくない。やはり万病の源は、口にある。