歯医者をしながら女優をしています ~「噛むこと」と豊かな老後~

No.152

t 「もっとよく噛んで食べなさい」

 幼かったころ、落ち着きのなかった私が、食事のたびに、母から厳しく言われた言葉だ。

 母の願いも空しく、あれから30年以上も、歯医者になっていながら、噛むことの大切さを特に意識せず、生きてきた。ところが先日、自分の口の中に初めてインプラントを埋め込み、母の言葉を改めて「噛」みしめている。

 歯を抜いた経緯はさておき、抜歯した部分にインプラントが入るまで、義歯を装着した。その間、大好きなたくあんを噛んでも違和感たっぷり。以来、なるべく硬いものを食べないように気をつけた。取り外しての洗浄も面倒で、結局、最後までその義歯には慣れることができなかった。

 インプラントの歯で、恐る恐る、たくあんを噛んでみた。ポリポリポリ。まるで自分の歯のように気持ちよく噛めるので、嬉しくなった。

 昨年末、高倉健さんが惜しまれながら亡くなった。昭和を代表する名俳優として常にスクリーンの中にいた高倉健さんだが、プライベートは謎に包まれていた。そのせいか、2012年に放映されたNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』という番組で取り上げられた「普段の高倉さん」の姿がとても印象に残っている。

 番組は、遺作となった映画『あなたへ』の撮影現場で見せる役者としての真摯な姿に密着したものだった。そのなかで、毎朝シリアルを食べ、夜までほとんど食べないという独特な健康法が紹介されていた。体力維持のため、ウォーキングも欠かさないという。高倉健流のこだわりが映し出されるなかで、歯科医師の立場から見てとても興味深い発見があった。

 それは、朝食のシリアルに必ず硬いナッツを加えていたことと、ウォーキングのとき、マウスピースを口に入れて歩いていたことだ。

 高倉さんは放送の10年以上も前から、この二つのことを続けていた。マウスピースは、プロボクサー並の厚さが4ミリもあるものを使用しているというから驚いた。いずれもよく噛むことで、脳に刺激が加わり、すっきりと目覚め、姿勢も良くなるから、という理由からだった。

 近ごろ見たテレビの健康番組によれば、認知症にならないで健康でいる長寿の人の共通点は「自分の歯でしっかりとものを噛んでいる」という結論だった。確かに歯科医療関連の論文にも、噛むことで脳の血流量が増え、海馬が活性化して脳が若返るほか、唾液分泌の促進により、免疫力も高まるとの研究が発表されている。

 人間にとって健康で長生きするために最も大切なのは「噛む」ことだとすれば、高倉健さんも私のように、幼い頃「よく噛んで食べなさい」と親から言われていたのかもしれない。あるいは、長年のご自身の生活習慣で「噛む」ことが大切だということを自然と会得し、実践していたのだろうか。

 超高齢社会を迎えた日本では、全身の健康と口腔のつながりが次第に重要視され始めている。私たち歯科に携わる人間は、歯だけでなく、全身という観点から口腔をとらえ、人間が健康で長生きし、豊かな老後を送る手助けをしなければならない時代になった。

 最後にこの場をお借りして、約2年にわたり素晴らしい執筆の機会をくださったジーシー社と読者の皆さまに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

著者

一青 妙

歯科医師・女優
(ひとと・たえ)

一青 妙 (ひとと・たえ)

1970年生まれ。父親は台湾人、母親は日本人。幼少期は台湾で育ち、11歳から日本で暮らし始める。 歯科医師として働く一方、舞台やドラマを中心に女優業も続けている。 また、エッセイストとして活躍の場も広げ、著書に『私の箱子(シャンズ)』(講談社)がある。