鐘をつく? 鐘が鳴る? 子規と漱石の友情


image-20220510135219-1柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺子規
鐘つけば銀杏散るなり建長寺漱石

先日、誰もが知っている正岡子規の代表作が、実は夏目漱石の句の本歌取りだったことを知りました。子規が奈良でこの句を詠んだのが明治28年10月、漱石の作品はその前月に新聞に発表されています。

漱石の「鐘つけば」も美しい句ですが、新聞の選者であり俳句革新運動の仲間でもあった高浜虚子からは「意外性がない」と酷評されました。その句をそのままスライドして生命を吹き込んだのが、28歳にしてすでに和歌や俳句の第一人者だった親友の正岡子規。

子規は作品の舞台を鎌倉から万葉の都・奈良に、銀杏の葉を自分の大好物の柿の実に置き換えました。不意に鳴った鐘の音にハッとする躍動感。青い空、朱色の柿、黒い大伽藍の鮮やかなコントラスト。斑鳩の里の歴史を象徴する重厚な時の鐘の音。大和柿の爽やかな食感。明るく大らかな「柿くへば」は現代的で色褪せません。

大胆で豪放磊落な田舎育ちの子規と、繊細で洒脱な江戸っ子の漱石は一見、対照的ですが、お互いの才能を認め合うよき親友でした。二人は江戸時代最後の年に生まれ、東大予備門で出合い、23歳で東京帝国大学の文科に進学した同級生です。

文明開化、富国強兵、身分制度、廃仏毀釈、列強の植民地主義……。新たな思想とこれまでの価値観がせめぎ合う時代の大転換期の荒波に揉まれ、迷い苦しみながら、日本の近代文学を確立した若き天才たち。

俳句雑誌「ホトトギス」や根岸短歌会で日本の詩歌の近代化を果たした子規は、漱石の文学的才能と創造性を高く評価して「畏友(尊敬する友)」と呼び、英文学者・教育者の道を着実に歩んでいた漱石を、自分の創作活動の現場に引き込みました。

子規亡き後に漱石が書いた「我輩は猫である」、「坊っちゃん」などの初期作品は、東京帝大の同期だった幸田露伴や尾崎紅葉らの美文調の小説と違い、「ホトトギス派の文学観を土台にした写生文によって書かれた俳句的小説」と評されて、今も多くの人に愛されています。

さて、冒頭の奈良の旅は、結核のため35歳で夭折した子規の、最後の旅となりました。この旅の様子は子規の随筆や、漱石に送ったユーモラスな書簡に生き生きと綴られています。

実は当時の歌壇では、子規の「柿くへば」もそう高くは評価されなかったようですが、子規はこの句に自信を持っていました。もし、現代に生きる私達がこの句を正岡子規の代表作だと思っていると知ったら、子規と漱石は顔を見合わせて「やっぱり」と楽しげに笑う気がします。

コラムニスト 鈴木 百合子

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